農薬の歴史その1:農業文明の発展編
人間が農業をはじめると同時に、人間と病虫害との関係がはじまりました。先人達の苦労の歴史を振り返り、現在の農薬がどの様にして生まれてきたかを知るのは大変重要なことです。このページでは時代時代を象徴する出来事を通じて農薬の歴史を紹介します。日本を中心に農業文化の発展について話を進めていきます。
約1万年前・・・農業の始まり
それまで狩猟・採取に頼っていた人間が、なぜ面倒な農業を始めたのかについては色々な説があります。人口が増えてきて食料が不足してきたためであるという説が有力です。ちょうどこの頃に氷河期が少し戻ってきて、千年ぐらいの間地球が寒冷化したことが知られており、狩猟・採取が困難になったとも言われています。
約5000年前・・・農業文化の発展
中国で農業の神様として祭られている「神農」。すき・くわを考案し、百草をなめて、食物・毒・薬となる草を見いだしたと言われています。実在の人物ではありませんが、それに近いことをした人がいたか、多くの人の業績を一人の神にまとめあげたと考えられます。また、中国最初の王朝である「夏(か)」を作った「禹(う)」という人物は治水に成功して民衆の尊敬を集め、これが帝国建設のきっかけになりました。 日本で農業がはじまったのも、この頃ではないかと考えられています。ソバなどが主だったようです。
約3000年前・・・農薬の出現
ローマ時代に麦の種をワインに浸したり、植物の灰や硫黄を畑にまくことなどが行われた記録があります。おそらく、おまじないとして行われたのではないかと思います。効果の程はわかりませんが、現代の農薬に通じるところもあるので何らかの効果はあったのではないでしょうか?
約2300年前・・・日本で水稲栽培はじまる
この頃は病害、雑草は十分に認識されていなくて、もっぱら猪・鹿・ねずみなどの獣やイナゴなどの大型の昆虫が害を及ぼすと考えられていました。銅鐸や男根型をした石棒などを祭りに用いて、害虫獣の退散を祈祷したと考えられています。
西暦600年頃・・・キリスト教の台頭
ヨーロッパでは害虫獣を宗教裁判にかけて断罪した記録が残っています。全ての生物に注がれる神の慈愛を受ける資格がないとして破門の処置がとられています。生け贄や魔女裁判なども害虫獣の退散の目的で盛んに行われたようです。これらは18世紀頃まで続きました。
平安時代・・・日本初の農薬?
西暦807年に書かれた「古語拾遺」という本に害虫に関する記載があります。当時の日本の稲作ではウンカとアワヨトウが主な害虫だったようです。伊勢神宮での祈祷により、虫が蝶に変化して飛び去り(アワヨトウが成虫になったのだろう)またハチにより殺されたことを喜んだ、という文があります。当時から有用な天敵としてハチやヘビ(ねずみを食べる)は認識されていたようです。また山椒や塩などを混ぜ合わせた物をまけという記載もあり、日本で最初の農薬とも言えそうですが、効果は全く無かったはずです。蚊帳が使われ始めたのもこの頃です。
鎌倉時代・・・肥料の発見
関東地方で糞尿を田にまくことが行われはじめたと言われています。肥料の考え方がはじめて生まれました。米がたくさん取れるようになり、関東武士は力をつけ、鎌倉幕府の開設へとつながったという説もあります。人糞を肥料として用いたのは日本独自の文化で、他国では例のないことだそうです。除草という考えもこの頃からはじまったようです。
西暦(以下省略)1600年・・・家伝殺虫散
現在の島根県に住んでいた松田内記という人物が「家伝殺虫散」というものを発明し、文書に残しています。これが記録に残っている日本最古の農薬です。トリカブトや樟脳など五種類の薬品を混合した物で、ウンカや猪に効果があるとされています。この人物は観察眼に長けていたようで、ウンカの生態などについて現在のレベルで見ても正確な記載を行っています。
1685年・・・生類憐れみの令と陶山訥庵
江戸の将軍「徳川綱吉」は天下の悪法「生類憐れみの令」を出しました。農村で猪や鹿を殺すことも禁じましたが、実際には寛大な処置がとられました。害虫に対してはおとがめがなかったそうです。そんなご時世に対馬に生まれた「陶山訥庵」という人物は、猪に悩む農民を救おうと猪の全滅計画を実行しました。これは対馬を9区画に石垣で区切って、順次その中の猪を柵などで追い込んで全滅させるという大事業でした。9年間かけてついに対馬の猪は全滅しました。その数は8万頭に上ったと記録されています。それ以来、対馬からは猪がいなくなり農民は安心して農作業に励んだと言います。しかし、陶山訥庵は生類憐れみの令に反すると厳しく批判され、役職を解かれるに至りました。
1697年・・・農業全書と宮崎安貞
この年、福岡在住の「宮崎安貞」は農業全書全10巻を完成させました。これは、最初にして最大の農業指南書であり、大きな反響がありました。その中に農薬のことも記載されており、タバコの煮汁や硫黄を燃やした煙など効果が十分期待できる物も含まれています。しかし、実際にどの程度実行されたのかはわかりません。
1732年・・・享保大飢饉
西日本を中心にウンカが大発生し、70%以上の減収となり、100万人以上が餓死したと推定されています。これ以降、サツマイモの栽培が推奨されました。その後も1782年の天明大飢饉、1833年の天保大飢饉があり(共に冷害とイモチ病が原因)江戸幕府の体制に大きな影響を与えました。この頃も防除法は祈祷が主でした。
1750年ごろ・・・注油法の発明
たんぼに鯨油など油をまくと、水面に広がり油膜を作ります。そこに虫が落ちると油に搦まれて飛び上がることが出来なくなり、死んでしまいます。このことが各地で知られるようになり、日本で初めて真に有効な害虫防除が出来るようになりました。現在でも油を果樹などにかけて虫を殺すことは行われています。江戸時代には多くの薬品が使われた記録がありますが、結局、注油法以外に有効な方法は見いだされなかったようです。また、注油法もあくまで一部地域で断片的に行われたもので、全国的に見ると相変わらず祈祷が主でした。
1845年・・・アイルランド大飢饉とアメリカ
この年、ジャガイモ疫病がヨーロッパ全土に広がり、イギリスの北にあるアイルランドはジャガイモを主食としていたため、人口800万人の内100万人以上の餓死者を出し、さらに多くの移住者も出し、人口が半減してしまいました。この時新大陸(アメリカ)に移住した者100万人。これが、アメリカ発展の基礎にもなりました。人々の、病虫害をなんとかしたい・・という思いがいっそう高まった事件でした。
1873年・・・植物検疫のはじまり
この年ドイツで世界初の検疫の法律が誕生しています。これは、アメリカからブドウの樹を輸入したフランスで、アメリカにしかいなかった虫が発生し、10年後にはブドウの収穫が1/3になるという事件があったことによります。その後、各国で同様な法律が誕生しています。日本でも明治維新以降、続々と渡来害虫が侵入し大きな被害をもたらせました。1914年に日本でも植物検疫所が発足し、害虫対策が本格的にスタートしました。外国から天敵を輸入することから始まり、大きな成果を残しました。
1913年・・・リービッヒとハーバー・ボッシュ法
植物が成長するために必要な物はなんなのか?これは長年にわたる人類の疑問でした。この答えが食料生産の増大につながるからです。1840年、ドイツのリービッヒは炭酸ガス、水と、チッ素、リン、カリが重要であることを発見しました。ここから人工肥料の考え方がスタートしました。しかし、リンとカリは鉱物資源として得られましたが、チッ素はなかなか得ることが出来ず、肥料は不十分な物でした。その後、同じくドイツのBASF社はハーバー・ボッシュ法という画期的なアンモニア合成法を開発し、チッ素肥料を安価で大量に得ることに成功しました。ここから、多収穫の近代農業がはじまり、いよいよ、病害虫と人間の戦いも本格化することになりました。また、化学合成物が大量に農業に用いられるという新しい図式が生まれました。
農業がはじまって以来の1万年間、人間は常に病害虫に悩まされ続けてきました。なんとかしたい、、、という長年の夢にようやく光明が見え始めてきたのは19世紀。真に効果的な薬剤が大量に得られるようになり、農民は多くの苦しみから逃れることが出来るようになりました。しかし、農薬の誕生期にはその慢性毒性や環境破壊について気がついていなかったのです。
近代農薬とは?
大昔から病害虫防除に薬剤は用いられてきましたが、効果がないか非常に弱く、大量生産することもできず、一般に販売されることもありませんでした。一方、19世紀ごろから出始めた近代農薬は、真の効果があり、何故効果があるのか科学的に実証可能、大量生産でき商品として一般農家が入手可能であることが特徴です。
1700年代頃・・・除虫菊粉の利用開始
欧州で除虫菊の粉で作物を害虫から守ることができることがわかり、商品として流通し始めたといわれています。除虫菊は明治以降日本でも育てられるようになり、一時は欧米に大量に輸出され日本経済を発展させる原動力になりました。除虫菊は渦巻き型の蚊取り線香の原料としておなじみの代物です。またデリスという植物の根(デリス根)も用いられはじめました。
1851年・・・ワインと石灰硫黄合剤とボルドー液
フランスはワインの大生産地ですが、原料のブドウは病害に弱く生産が安定しませんでした。1851年にフランスのグリソン氏は石灰と硫黄を混ぜた物(石灰硫黄合剤)に効果があることを発見しました。このものは金属を侵したり、悪臭がするなど扱いにくい液体でしたが、1954年に日本の小畑氏により固形化され現在にいたっています。
同じくフランスで1880年頃にボルドー液が発見されました。硫酸銅というものに石灰を混ぜた物で、毒々しい色をしていることからブドウの盗難防止のためにまいたところ、病気が発生しなかったことが偶然わかったのがそのきっかけと言われています。共に1900年頃に日本に導入され、現在でも使用されています。
1800年代・・・アメリカでも農薬誕生
アメリカでも青酸や亜ヒ酸や硫酸ニコチン(タバコの成分)が使われ始めています。いずれも非常に毒性が高い物で使用する際に多くの事故が起こったことでしょう。1900年頃日本にも導入され使用されましたが、現在では硫酸ニコチンがわずかながら使われているのみです。
1900年前後・・・明治〜大正時代の日本では
明治から大正時代にかけて日本政府は農薬の技術輸入に努め、1891年に除虫菊粉が用いられたのを皮切りに・ボルドー液・青酸・ヒ酸鉛・硫酸ニコチンなど諸外国で発明されていた主な農薬は日本に導入されました。また国産化にも着手し、1917年に日本初の農薬製剤工場が操業を開始し石灰硫黄合剤が作られました。また、日本初の農薬合成工場(現在の三共(株))が1921年に操業しクロルピクリンを作り始めました。その後、主な農薬は続々と国産化されています。
1924年・・・除虫菊の有効成分が判明
当時よく用いられていた除虫菊の殺虫有効成分についての研究が行われ、スタウディンガー氏らによってそれがピレトリンという化学物質であることがわかりました。農薬と化学が結びついた画期的な研究成果でした。このピレトリンを元にして化学的に発展させたのが合成ピレスロイド(合ピレ)です。1932年には日本の武居氏らによって、デリス根の有効成分がロテノンという化学物質であることも判明しました。日本人が農薬分野で世界的に認められる研究を完成させた最初の例です。
1930年代・・・日本の農村でも農薬が普及し始める
昭和初期には日本の農村でも農薬が本格普及し始めました。それまでは各地で断片的に使用されていたのが実状です。特に野菜、果樹、茶には必要不可欠な資材として認識され始めています。稲作にはまだ有効な農薬が生まれていませんでした。これは水田のない外国からの技術導入に頼っていたためでしょう。ヒ酸鉛、石灰硫黄剤などの販売競争は激化し、多くの農薬会社が淘汰されましたが、一部は合併などを繰り返し大きな会社へと成長していきました。
1938年・・・DDT・・農薬史上最も重要な発見
ヨーロッパでは、絨毯や衣服が虫に食べられるのを防ぐのに合成染料が役に立つことが知られていました。その事実を基に、より強い防虫効果を持った化合物を探す課程で、ガイギー社のミュラー氏はDDTに殺虫活性があることを発見しました。さっそく、研究プロジェクトが組まれ、農業用、防疫用に有用であることが確認され実用化されました。これは、人間が大量に合成可能な有機化合物を、殺虫剤として実用化した最初の例で、その後の農薬は全てここからスタートしたといっても良いでしょう。ガイギー社は永世中立国であるスイスにあったことから、当時険悪な関係であった英米と日独の両方にDDTを売り込みましたが、その重要性に気がついたのは英米側だけでした。その結果、戦場でDDTを用いた英米軍にくらべて、日本軍は多くのマラリア感染者を出し、太平洋戦線での敗退の原因の一つになったといわれています。ミュラー氏はこの功績により1948年にノーベル賞を受けています。
1937〜45年・・・戦争中の日本の農薬事情
中国、英米との戦争の拡大にともない、日本では農薬の原料に事欠くようになりました。農薬は配給制となりましたが、実際にはあまり出回っていなかったようです。当時、農薬が農作物の増産に不可欠であることは認識されていましたが、その原材料である銅や硫黄などは兵器の製造にも不可欠であり、農薬用にはまわされにくかったのです。農村の働き手が戦争にかり出されたことと相まって、農業と農薬の進歩は全く止まってしまい、ただでさえ苦しい食料事情に拍車をかけてしまいました。
1940〜44年・・・有機農薬続々誕生
有機農薬というのは、有機化学的手法で人工的に合成された農薬、ということですが、読者の方にはピンと来ないかもしれません。現在の農薬の9割は有機農薬と考えればいいでしょう。DDTに刺激され各国で殺虫剤の研究がはじまり、BHCが1941年頃にフランスで、パラチオンが1944年頃ドイツで、ディルドリンがアメリカでそれぞれ発明されました。いずれも高い殺虫効果があり、またたく間に先進国を中心に世界へ広がっていきました。
1944年・・・除草剤誕生
虫に薬をかけたら死ぬ、、、感覚的に理解できることです。しかし、草が枯れる、しかも作物は枯れずに雑草だけが枯れる、ということは夢のような話でした。それを現実のものにしたのが、2,4−D(2,4PAと呼ばれることもある)です。草ひきは農作業の中でも最も過酷で時間もかかるものでしたから、農家では大歓迎されました。日本で除草剤が本格的に普及しはじめたのは1950年代に入ってからです。除草剤の普及は、農村労力の都会への流入を可能にし、日本の工業化に貢献しました。また過酷な労働からの開放は、農家の健康や余暇の拡大、兼業化による現金収入の増加など社会に大きなインパクトを与えました。
年 1949 1965 1975 1991 水稲の除草にかかる時間(10アールあたり) 51時間 17時間 8時間 2時間
1946年・・・DDTが日本上陸
終戦後、アメリカ軍は日本の衛生状況の悪化を防ぐため、ノミ、シラミ、蚊の防除を勧めました。日本人のからだにDDTを真っ白になるまでかけたりしています。おかげで、多くの疫病を防ぐことができ、多数の人命が救われたのは事実です。また、農薬というものが、グッと身近になったのは、この時からでしょう。
1952年・・・稲作用の農薬が誕生
水田のイネにつく病害虫を農薬で退治するには2つの大きな問題がありました。1つは有効な農薬がないこと、もう1つは泥状の水田に入っていって農薬をまくのは大変な重労働であったことです。最大の病害であるイモチ病に効果が高いセレサン石灰(水銀剤)と、最大の害虫であるニカメイチュウに効果が高いホリドール(パラチオン)が、この年に使用開始されています。また、泥の中に入らず、あぜ道からまける粉剤が開発されたこともあり、農薬が急速に普及しました。それまで、ニカメイチュウの害を避けるため、田植えの時期を遅らせていたので、実るのも遅くなり、成長前に台風でやられてしまうのが日本の水田の弱点でした。新剤の完成により、田植えを早くすることができたのは稲作の画期的な進歩でした。
1957年ごろ・・・抵抗性、リサージェンスなどの問題発生
同じ殺虫剤を連続してまいていると、やがてその殺虫剤では死なない虫が繁殖しはじめることがあります。これが抵抗性という現象で、現在では当たり前のこととして認識されていますが、当時は知られておらず、農薬での病害虫防除にも限界があることがわかりました。また、殺虫剤をまくと害虫は減りますが、それに替わって従来目立たなかった虫が新たに繁殖して、害虫化することがあります。これがリサージェンスと呼ばれる現象で、この頃から問題となりはじめました。 ともに、農薬は万能ではないことが明らかになった事件といえるでしょう。
1961年・・・ブラストサイジンS登場
当時の日本は米の増産が急務であり、イモチ病を防ぐセレサン石灰という農薬は救世主として歓迎されました。しかし、この農薬は水銀を含んでいることから、毒性があるのでは?と懸念されていました。そこで、水銀を含まないイモチ剤が望まれていました。日本の福永・見里らは多くの菌からイモチ病に効く抗生物質はないか探し求め、その中からブラストサイジンSを見いだしました。これは農薬に天然抗生物質を用いた最初の例で、世界的にも評価の高い研究となりました。
1961年・・・PCPによる魚の大量死が社会問題化
1957年に使用開始された除草剤PCPは、水田の最大の雑草であるヒエに除草活性があることから、倍々のペースで普及していき、その5年後には過半数のたんぼで使われるほどに成長しました。ところが、魚に対して高い毒性をもっていたことから、各地で問題となっていたようです。1962年には琵琶湖や有明海で大量の魚が死亡する事件が起こり、その原因としてPCPが散布直後の大雨で流れ出たことがあげられました。国会でも取り上げられ、1963年からはそれら地区でのPCP使用に制限が加えられました。自然環境に農薬が多大な害を及ぼす可能性があることを、日本国民が認識した発端となった事件といえるでしょう。
1962年・・・サイレントスプリング出版
アメリカでカーソン女史により発表された本である「サイレントスプリング」は大きな反響を呼び、1964年に「生と死の妙薬」の邦題で日本でも出版されました。殺虫剤DDTなどが自然界で分解されにくく環境に蓄積し、思わぬ害を招く可能性を指摘したものです。日本でも大いに話題になり、農薬の安全性に関する議論が沸騰しました。従来、環境に蓄積するとか慢性毒性を発現するといった観点では農薬は見られていなかったのです。その後の安全性試験などに多大な影響を与える画期的な本でした。
1968年前後・・・農薬安全使用へむけての取り組みが進む
戦後の農薬の急速な普及により、農薬による事故や事件も多発し、サイレントスプリング以降、世論の農薬を見る目も厳しいものへと変わりました。高活性低毒性な新型剤の発明も相次ぎ、古い農薬は姿を消していきます。1964年には食品残留農薬の調査開始。1966年にいもち剤の非水銀化申し合わせ。1967年に急性毒性の高い剤の生産中止を農林省が通達。1969年には水銀剤およびDDT・BHCなどの塩素系殺虫剤の水田使用禁止など、毎年のように古い農薬は消え、毒性試験の項目は増えていきました。
1971年・・・農薬取締法大改正と使用禁止農薬の拡大
徐々に高まっていた農薬の毒性に対する関心と、明らかになってきた自然への影響などを考慮して、農薬を登録する際に各種毒性試験や自然界への残留試験などを義務づけた法律改正が行われました。現在ではさらに多くの試験項目が追加されていますが、基本的にはこの改正が「近代農薬」から「現代農薬」への脱皮のきっかけになりました。この年には、DDT・水銀剤・BHC・245Tなどそれまで中心的役割を果たした農薬が使用禁止となり消えていきました。これは、その代替となる新型剤が出てきたこととも関係しており、農薬研究の発展が法律改正を可能にしたともいえ、農薬研究者の苦労が偲ばれます。